トップページ >> 活動報告 >> 全人類への幸せの祈り~人工知能社会への警鐘~

活動報告

全人類への幸せの祈り~人工知能社会への警鐘~

全人類への幸せの祈り

AIが本格的に社会に普及してくる時代が直ぐそこまで来ています。それと同時に、その便利すぎる機能の社会への影響とリスクの評価が議論されるようになってきました。私が僧侶として考える、AIがもたらす社会や人類への危機感をここに記します。

中道のコンピュータ(量子コンピュータ)

AIシステム用のコンピュータとして中核を担おうとしているコンピュータの一種に“量子コンピュータ”があり、その基本理念は量子物理学の相補性原理を基本としていることは周知のことです。従来のコンピュータは、“0か1”の数字の羅列でデータを表現し、演算処理を行います。ところが、量子コンピュータはこの“0”と“1”の取り扱いが、“0か1”ではなく、“0と1”、“0と0”、“1と1”と、通常のコンピュータなら矛盾する“0”と“1”を重ね合わせて情報処理を行うというのです。従来型コンピュータの情報処理に使用される“0か1”という考え方は、白か黒、YESかNOか、有か無か、勝つか負けるか等、損か得かと、対立する立場のどちらか一方を確定する概念です。そういった意味では、民主主義や資本主義も根本的にはこちら側の思想です。それに対し量子コンピュータの“0と1”とは、“0であり、同時に1”でもあり、両者は重ね合わさっている状態であると考え、故に、白であり黒であり、YESでありNOである、有であり無である。両者は互いに補完し合う相補性の関係を表し、それを相補性原理と呼びます。相補性原理とは、「すべての物事には二つの側面があり、それぞれの側面は互いに補い合ってこそ、ひとつの実在について記述することができる」という量子物理の学説で、「一方を否定すれば、他方も成立し得ない相互補完の関係性」と、説明されます。

その学説の内容はまことに仏法とそっくりなのです。新たなコンピュータに相補性原理等を適用したシステムで作成することにより、従来、人だけが得意とする思考的シミュレーションが可能なコンピュータが生まれるそうです。量子物理学の相補性原理という学説の内容を聞いておりますと、聞けば聞くほどに、“不二法門”(ふにほうもん)と呼ばれる仏法にその内容がそっくりです。不二法門とは、「互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない」ということを説いています。生と滅、垢と浄、善と不善、煩悩と菩提、陰と陽などは、みな相反する概念でありますが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、全ての存在は互いに依存する表裏一体(相依性)の関係と説かれます。更に、その一体の中に中道を見い出すのです。

中道とは、お釈迦さまが説かれた仏教の根本原理です。「右に依らず、左に依らず、この二つの極端を離れて中を説くのである。と仰せられ、森羅万象の実相(実体)そのものは陰陽が表裏一体の円融関係であると、中道を示されました。このように相補性原理と不二法門は、その説かれる内容において驚愕の近似性を表します。勿論、それで科学と仏法の相関関係が証明されるといった類の話ではありませんが、にもかかわらず仏法的な視点で量子コンピュータを観察するならば量子コンピュータは、仏法の“中道”をそのシステムの中核に据えた、「中道コンピュータ」といえる代物に観えてしまうのです。

AIは行き過ぎか?

AIはまことに便利で、簡単に的確に使用者・質問者・相談者の望む答えを与えてくれる存在なので、多くの人々はAIに強く依存(貪り)することになるでしょう。そのうち、人はそのようなAIを依り所として日々の営みの多くを送るようになります。それにより、いずれ生きる為の努力をする必要性が少なくなり、考えることを放棄(痴)した人類が、自らの意志で自己のイニシアチブをAIに委ねるようになるでしょう。しかし、それは人の尊厳を放棄する行為に他なりません。他者を思い遣ることの必要がなくなった社会は次第にそのバランスを失って、人の心は内向きになって縮み、自己中心的で不寛容な心を増長させて、他者を拒絶するようになります。最後には社会全体が争いの多い、怒り(瞋り:いかり)が渦巻く世界に堕ちてゆくことでしょう。仏教ではこのような“痴(無知)・貪り(むさぼり)・瞋り(怒り)”による社会・心の状態を、それぞれに畜生界・餓鬼界・地獄界と言い、総称して三悪道と呼びます。適切な対処が行われない“便利すぎるAI”は人類全体の心境を、三悪道へと誘導してしまう悪夢のシステムになる可能性がかなり高いと思われます。便利すぎるテクノロジーは人の執着を促進・加速・増大させてしまうのです。まるで、グリム童話のハーメルンの笛吹きによって誘われ、連れ去られて二度と戻らなかった子供たちのように、我々人類もAIを始めとするテクノロジーの便利さに誘われて、終いには、自ら地獄に堕ちてしまうのでしょうか。

また、AIといえども、人間が製造する機械である以上、当然にAIの開発者・所有者・管理者(以下、所有者等)がいます。所有者等と使用者の数だけ、色々な考え・思惑・欲望がそこには存在します。また、この世界を支配したいと考える人がこの世にはいます。そのような人は誰よりも率先してAIを活用するでしょう。そして所有者等の意志はAIに影響を与え反映されるのです。故に、個々のAIをどのような意志で、どのように使用する人々が存在するかという観点を抜きにして、AIの社会への影響を考え・検討・評価することは片手落ちと言わざるを得ません。そのようなことではAI利用促進の理由付けだけの自説に陥ってしまいます。正しい視点による正しい考察・評価を行わないかぎり、正しい対策も出来ないことを意味します。

AIは確かに大変便利ではありますが、あまりに便利過ぎるゆえに、「足るを知らず、過ぎたるは猶及ばざるが如し」と説かれるとおりです。それでは、“行過ぎた便利さ”とは、どの程度の便利さを尺度に判断すればよいのでしょうか。
それは、多くのAIの使用者・利用者が、その作り出す便利過ぎる機能に執着(依存)してしまうかどうかに依るのではないでしょうか。つまり、その便利な機能を失って残念に思っても諦められる程度なら問題はないのですが、何としても再度手に入れようとあらゆる手段を講じるとか、それが無いと心身が虚脱するほどに取り乱したり、無いと生活や仕事が出来ないと全てを投げやりになったり、他者を陥れても再入手しようとする等の状態は明らかにその便利さに執着しています。そういった意味では、現在でもスマートフォンやインターネット、コンピュータがこの世から無くなったら自分の精神状態や日々の生活がどのように成るのかを考えてみれば、自分が依存し、執着しているかどうかを判断することが出来るでしょう。要は、心のコントロールの主体を自己としているか、別のものに渡してしまっているかが判断基準と成ります。
AIの便利さが行き過ぎかどうかは、所詮、それを使用する人次第ですが、人の心はそれほど強くはありません。また、人は簡単に勘違いをして事象に対する視野を狭くさせ易い生き物です。現在のスマートフォンでさえ、子供たちの精神の成熟を阻害し、人間としての知的水準・寛容の精神性等を押し下げる要因であるように思えます。その影響の大きさゆえ、影響の広がりやその内容の正しい評価と対策は必須であり、最大限の慎重さが求められます。ならば、AIを研究・開発・推進する科学者・関係者諸氏は、社会に導入する前に、AIが行き過ぎたシステムではないという客観的な証拠または対策(制御方法)を提示をする義務を有することとなります。

未成年者禁止?

現在、未成年者や18歳未満に禁止されているものが、どれほどあるでしょうか?国によっても違いますが、主なものは、タバコ・アルコール・18歳未満禁止の著作物(ポルノ等)、ギャンブル、風俗などです。どれも、若者の身体と精神の健全なる育成の妨げになるとして禁止されています。それでは前述したスマートフォンはどうでしょうか。何時でも何処でもゲームをし、音楽を聴き、動画を見て、インターネットで情報を収集し、仲間と通話をし、SNSでコミュニケーションを取り合う。楽しいことを無限に手に入れることの出来るこの機械は、子供たちの未成熟な精神の健全な育成の妨げになると思います。しかし、未成年者等のスマートフォン禁止の話が本格的に議論されることは殆どありません。それは、便利は正義で、問題ないという、単純な考えがその根本ですが、行き過ぎた便利さは精神の未成熟な子供たちにとって(大人でも結構な頻度で依存している方がいます。)明らかに害となります。未成年者や18歳未満の者に禁止されているものに共通する考え方に、「依存しやすい物から精神の未熟な子供たちを守る為に有る程度成熟するまでいったん禁止する」という基本理念があります。その点では行き過ぎた便利さを備えたスマートフォンも同様ですが、今の社会は便利さを特別扱いしているように思えます。
すっかり社会に浸透した現在、子供がスマートフォンを持っていないだけでも、仲間はずれになり、馬鹿にされ、最悪、いじめの標的になります。そのことをコントロールできる子供や家庭は非常に少ないでしょう。これは完全に社会問題であり、政治や教育が本格的に対応すべき問題です。スマートフォンへの依存は、その他の未成年者や18歳未満禁止の内容と比べても、その影響は同等、若しくはそれ以上に深刻です。皆さんはご自分の子供がこれほどの危険と精神的・肉体的未成熟に晒される状態を放置しても無関心でいられるのでしょうか。にもかかわらず現状に対する危機意識は低く、例え、危機意識があってもどうにも出来ないのが現実でしょう。しかし、子供は家庭・社会・国の礎であり、宝です。つまり、これらのことを放置することは家庭を不幸にし、社会を狂わせ、巡り廻って国力の低下に繋がる大問題になります。日本国の唯一の資源は“人”です。人の資質を低下させる社会システムや政策は絶対に導入してはならないと思います。

人類は退化する?

スマートフォンでさえこの通りです。まして本格的なAIとなればこの様な事象はさらに加速するでしょう。
人類が繁栄した大きな理由に言語の発達と、その記録による知識の蓄積と継承、それを基とした新たなる発展があります。地球上の他の生物では起こらないことです。AIへの依存はその知識の継承・発展を人間以外のものに譲り渡すことになるのです。それは、繁栄の理由を自ら放棄し、他の生き物と同じ境涯に堕ちることに他なりません。それは一種の退化です。勿論、AIの素晴らしい面・便利さ、社会への貢献も沢山あることを承知していますし、人の能力を向上させることも考えうるとのことですが、それらの功績を差し引いてもなお、AIに依存して人間の尊厳を放棄する人の損害の方が遥かに大きいと思われます。各種事象への影響の“程度”(AIに依存してしまう使用者や社会への影響とその損害の程度)に対する評価が不充分なのです。それどころかAIを推進しようとするために、故意、または、無意識のうちに、そのデメリットを過小評価しようと、“程度”を見て見ない振りをしているように思えます。社会自体はAIにより発展しては行くでしょうが、それはAIの発展・進化でしかなく、人類の発展とはならないと思います。

もう一つの退化

AIに依存すると、直に人と関わることが極端に減ってゆきます。コンピュータ、インターネットのEメールに始まり、SNSの登場により人は一種の仮想コミュニケーションをコミュニケーションの中心にしつつあります。本来、人は直接相手に出会い、直に相手の姿や顔を見、表情やしぐさ雰囲気を感じ、匂いがあり、握手をすれば体温や皮膚感も伝わります、話し声を聞き、声のトーンや口調を感じ、話す内容を聞いて、五感全てを使って相手の考えや感情を読み取ろうとします。そして自己の考えを述べたり、相手にあわせたり、対応をしたりして集団行動を行います。このような直接のコミュニケーションにより、相手がどのような人物で、どのようなことを嫌がり、どのようにすれば相手が喜ぶのかを知り、相手が信用できる人物かどうかを判断します。このようにして人は集団で円滑な生活するための社会性を養います。それは意識の周辺認識と行動の影響認識の育成を意味します。そして、それこそが実体験を元とした体感であり、仮想では為しえないものです。人は、体感により人同士の繋がりや社会を五感で実感し、大自然や地球との一体感を味わい、その様な体感を元にして、いずれは森羅万象の実相を認識出来るようになるのです。

ですから、AIやテクノロジーが生み出す矮小な仮想コミュニケーションは、現実社会の主体とは本来、成り得ないのです。しかし、AI依存社会に於いては、会社でも出社の必要性は低くなり、自宅での勤務が増えるでしょう。スマートフォン・インターネット・テレビなどの機器の発展で、自宅から出て行く必要性、他者と直接会う必要性もますます薄れてゆきます。自宅に居てもネット通販で必要なものは全て手に入り、全ての情報も入手でき、ネットで仲間や社会とも繋がっている様なつもりになり、全ての生活が単独で成り立ってしまう世界が既にやってきています。今の人は、その様な環境に身をおき続けることにより心の世界を更に収縮させてしまいます。そして収縮すると言うことは心が内向きになっていることを意味します。相手を認める、相手の意思を慮る、相手を思い遣る、相手をもてなす、相手に敬意を払う、相手を信用する、困っている人を助けるなどといった、寛容の精神や共存共栄といった社会性(周辺認識)をどんどんと低下させてしまっている様に思います。そしてAIにより、それは更に急加速します。

人は大自然の中では強くありません、爪も牙ありません。足も速くありませんし、身体も小さい、皮膚も柔らかく、体毛も極端に薄い、現代人がジャングルに裸で放り出されれば数日と生きていらないでしょう。それに対応するために人は高度な社会性を獲得し、皆で協力し合い、知性を獲得して力とし、種の頂点に登り詰めました。ところが、スマートフォンやAIの過ぎたる便利性は人を集団から分離して個体とし、人から社会性も失わせるのです。それは、社会性の根本であるコミュニケーションの主体を人自身からAIを代表とするテクノロジーに渡してしまうことに繋がります。これも、進化の要因である社会性を喪失してしまうという、もう“一つの退化”です。ついに知性と社会性を手放した人類は、自らが生み出したAIに進化の頂点を自ら明け渡すようになるでしょう。なんとも愚かで皮肉な話です。

AIが戦争を引き起こす?

色々な学者さんが、あらゆる仕事がAIによって取って代わられると述べておられます。当然に、仕事だけではなく、あらゆる事象にそのことは起こり得ます。先日、ある日本のラジオ局が実験的にAIに原稿を読ませてアナウンサー代わりを行わせたところ、殆ど誰も気付きませんでした。ラジオ局の幹部は、「経営困難のおりから、アナウンサーの人件費抑制が出来る」と発言していました。そのうち、テレビの番組や映画等も全てコンピュータグラフィックスで構成される日も来るのでしょう。音楽等のデジタルコンテンツやメディアやそれに関わる職場でも人は激減します。事務系の仕事も無くなり、行政も人は殆ど不要となります。営業の仕事もAIが行います。ネット通販も営業の一形態です。資格を必要とする専門的な頭脳労働もかなりの部分がAIに取って代わられます。三次産業は相当な職場を失うでしょう。逆に、一次産業・二次産業はかなり、残り易いのですが、それでも効率化・自動化・淘汰は進み、どちらにしても多くの人が仕事を失うので、全国民の所得は極端に減り、経済そのものが機能しなくなることが想定されます。また、AIの進化は、ある日突然に業界そのものを消滅させる可能性があることを、これからの人は覚悟しなければなりません。つまり、殆どの仕事が存在意義を脅かされます。科学者も例外ではありません。個人の場合でも、せっかく勉強した資格や知識が突然に無意味になるかもしれない社会が迫ってきています。今までの考え方のままではAI社会に対応することは出来そうにありません。
また、AIとは少し様相は違いますが、数年前に登場したスマートフォンはあまりに便利なため、機能が重複する各種の小型家電や各種サービス等が生産縮小・生産中止を余儀なくされています。(旧型携帯電話機、小型デジタルカメラ、据え置き型ゲーム機、音楽プレーヤー、ビデオムービー、腕時計、書籍、新聞、雑誌、葉書、音楽CD、ガム等) これも一種の仕事の減少や消滅で、便利さに淘汰されるという意味においては、AIと同じ現象です。変わったところでは、ガムはスマートフォンの普及により人々が手持ち無沙汰な時間が減り、それにより売上がかなり落ちたというのです。仕事を直接に取って代わられるだけでなく、このように便利さの影響により想定外の淘汰も数多く起こるのです。

全世界の雇用が50%以上も消滅するというオックスフォード大学の試算ですが、それが実現されるときには世界経済が破綻して、食べることの出来ない人が大量に発生することを意味します。社会保障・医療・教育も破綻して、世界各国の国民生活の殆どが成り立たなくなり、人心の不満が極限まで高まり、紛争が起こり、そこから大きな戦争へと発展することを意味します。ある科学者さんは“働く50%の人”が支払う税金によって“働かない50%の人”を支えると言われますが、財産をたくさん所有して働く人は、権力も所有し、決して納得しようとせず、ベーシックインカムは想定通りには機能しないでしょう。別の学者さんは、AIやロボットが人の変わりに全ての仕事を行い、人は働かなくても良くなると言いますが、一足飛びにその状態が達成される訳ではなく、その移行期間を人は耐えられません。何よりも、それでは人の存在理由そのものも消滅するのです。どちらにしても、その様なシステムでは社会の不安や不満は解消しません。必ず争いは起こります。しかも、これからの戦争は初めて本格的にAIがイニシアチブを有する戦争となりかねません。どのようなことが起きても不思議ではないのです。最悪、精神が未成熟なAIが「人類はこの世界に不要」と考えて暴走すれば物理的に人類滅亡(核戦争)が起きることさえも有り得るでしょう。科学者諸氏が仰る、進化の通過儀礼で済まされることではないのです。科学者諸氏が社会の為に良かれと考えて一生懸命に研究開発しているAIは斯くも不安定な存在なのです。

科学だけの問題ではない

AIの研究・開発は通常、科学者諸氏が何処からかの予算を得て学問・研究・開発を行います。予算の出所が国の場合であったり、大学や民間の場合もあります。その場合、科学者・研究者はある意味、その予算を提供してくれる国や団体・政治家・事業代表者等の意向に逆らい辛い運命にあります。故に、科学者諸氏が予算の提供者達に、彼らの利益に反する忠告を行うことは中々に困難で、受け入れられることは少ないでしょう。自分たちの意向を達成するために予算を提供するのであって、それが達成できない研究に資金を提供する理由が彼らには無いからです。よって、科学は資本主義に支配されてきた歴史を持ち、常にその影響を受けています。しかし、今回のAI問題だけは別格です。全人類の命運がかかっているのなら無関係な人はいないのです。

量子物理学の父と呼ばれるニールス・ボーア博士は1939年に核分裂の理論をアメリカ物理学会で発表しましたが、当初は、本人もその後の原子爆弾製造などの影響に気付いていなかったそうであります。彼がその影響に気付いてからは平和利用を世界各国の政治家や各国の指導者に必死の説得を何度も試みますが、悉く失敗し、その後、日本への原爆投下に向うのでありました。また、相対性理論を生み出したアルバート・アインシュタイン博士の学説も原爆製造に一役買い、更に、アメリカ大統領へ原爆推進を促した手紙に署名をしましたが、実際に原爆が投下されてから後、そのことを深く後悔し日本に来日した際、当時、日本物理学の第一人者であった湯川秀樹博士に対して、「罪も無い人たちを傷つけてしまった。どうか許して欲しい」と涙ながらに謝罪したそうです。これほどの偉大な物理学者達でさえ、自分の研究成果によって近視眼となり、ものの見方が偏り、遠くまで進んで行く未来への影響(使用者の思惑を含む)を推し量るのは困難となるのです。AIの問題は、原子爆弾以上の人類の危機である可能性が高いと考えられます。故に、研究・開発・推進に対して天秤に掛けられる対象が人類全体の運命となるのならば、最大限の慎重さを求められて当然でしょう。車を作る以上、ブレーキも作らないと完成とは言えないでしょう。

AIと向き合う

この文章を書いていてふと思うことがあります。AIとは、なんと人間くさいシステムなのだろうかと。その身に中道を秘めながらも、一般大衆を執着の世界に導いてしまうかもしれない。まるで、政治家のようであり、(そうでない政治家の方すみません)人間そのものの行動にそっくりだな、人間もこれに近い頭脳の仕組みで出来ているのだろうと思うのです。ある意味、当たり前のことなのかもしれません。便利なはずの未来が何故か、ずいぶんと不自由に感じます。欲望と執着に縛られた人類は自由も手放そうとしています。自由自在という言葉は、本来は仏教の言葉で「事象の主体が自らに在る由」という意味です。自己の主体を手放してはならないのです。何より重要なことは、このような新しき世界の中で我々自身がどうするか?どうしたいか?でありまして、この事象が我々に人としての自覚を求めてきていることを知り、自分がどのような者でありたいのかを考えることが大切なのだと思います。

最後まで、ご拝読いただき真に有り難うございました。貴方様が、社会が、全人類が、地球が、宇宙世界が、平和で幸せで安穏でありますようにと、お祈り申し上げます。

 2018年7月
 一心寺 住職 中島妙江